◆昭和のこどもたちにとっての成瀬尾根

2022年6月に成瀬尾根で見かけた昆虫のちょっとしたお祭り。クヌギの木にススメバチとカナブン多数。
2022年6月に成瀬尾根で見かけた昆虫のちょっとしたお祭り。クヌギの木にススメバチとカナブン多数。

ヒカゲチョウの後をついていくと良いことがある

成瀬尾根。ポプラヶ丘コープ15号棟の1階のあの部屋から何度通ったことでしょう。

時は1980年前後。当時の僕は「あの山」にそんな名前があるとは知らず、コクワガタが出始める5月中旬から、放課後毎日のように「あの山」に出かけました。成瀬中央小学校での思い出より、「あの山」での思い出や、学んだことの方が記憶に残っているのには我ながら笑ってしまいます。
  「あの山」でのもっぱらのお目当てはクワガタやカブトムシでした。これらの甲虫が集まるクヌギ、コナラ、クリの木は小学校低学年の頃から樹皮を見て見分けられるようになっていました。そこには、カナブン、ヒカゲチョウ、ススメバチ、そしてちょっとクワガタに似ているヨツボシケシキスイなども寄ってきます。ワイワイと樹液にたかっている様子はまるで昆虫のお祭りのようでした。

ヒカゲチョウの後をついていくと良いことがある。ヒカゲチョウの後をついていくとたまに昆虫のお祭りに出会える。子どもながらに「すごい法則を見つけてしまった!」と誇らしげに山道を歩いたのを覚えています。

シロスジカミキリが教えてくれた人と自然の難しい関係

当時はシロスジカミキリも結構いて、クリ畑のおじさんに「捕まえてきたら10円あげる」と言われて、捕まえてきたシロスジカミキリを渡すと、なんと立派なシロスジカミキリをその場で殺すではないですか!他にもミヤマカミキリ、ノコギリカミキリ、ゴマダラマキリキはお気に入りでしたが、クリの木などの樹皮をかじり、卵を産み付けるために、農家さんには害虫とみなされていたのを知りショックでした。その一件以来、シロスジカミキリをクリ畑のおじさんに持っていく事はしませんでした。

「あの山」は、どうらや「里山」だったのだ、と知ったのは大人になってからです。

1980年代前半には田んぼもあり、小川が流れ、サワガニやミズカマキリ、タイコウチ(*)、ヤゴなどの水生昆虫を捕まえて遊びました。一度、代掻きした田んぼに友達と一緒に入り、裸足で大はしゃぎしたことがありました。その翌日の朝礼で校長先生が「君たちの中で代掻きした田んぼを荒らしたものがいる。農家さんは大変困っている。」という話をされ、ものすごく反省したのを覚えています。
こうした経験を通して「あの山」では生きもののことだけではなく、人と生きもの、人と自然環境の関係についても多くのことを学びました。

アメリカ.ペンシルバニア州在住・生物学者 高橋瑞樹) 

 

◆1971年まで炭焼窯があった

成瀬尾根トンネルの道を下って歩いていると、石碑が目に入りました。碑文を読んでビックリ。この地域で木炭が、生産されていたとあります。

古くから住んでおられる方に聞き取りするうち、炭焼窯の記録写真をお持ちの八木さんにお会いできました。撮影の日付が昭和46(1971)であって、このこともビックリ。(そんなに大昔でないから)この地区に20基あまりの炭焼窯があったそうです。

(catalyst)


炭焼きの石碑文 (裏面に歌)

 

 奈良の谷戸で炭焼きの歴史は定かでないが 父の話では 江戸末期から明治の初期に原野を開拓し くぬぎ 楢等を植林し約十年から十五年で伐採して木炭を焼き 自家消費はもとより 販売には横浜の中心街まで行ったという。

 大正から昭和へ終戦後の一時は 燃料不足により 炭焼きの仕事が復活したが 昭和三十五年頃より 農家でも石油の使用により衰退し 昭和四十五年の成瀬土地区画整理事業により 完全にこの土地から土竈の火は消えた。

 私達は先人たちの生活の姿を詠んだ父の歌を記し、土竈の近くの  町田市成瀬四千百四十九番地に この碑を建立した。

昭和六十二年五月吉日

八木忠良

坂間和子

佐藤久美子

鴨志田宣子

山口喜世子


炭焼き窯の前で(1971年撮影)
炭焼き窯の前で(1971年撮影)
炭焼き窯に火をくべる(1971年撮影)
炭焼き窯に火をくべる(1971年撮影)